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南田洋子さん

東京市芝区三田に米穀商の娘として生れる。母親は日本舞踊の師匠をしていた。終戦後、茨城県土浦市 に移り、1951年、茨城県土浦第一高等女学校(現・つくば国際大学高等学校)を卒業後、単身上京する。伯父の家に下宿して知人の紹介で水谷八重子に弟子入りする。その後大映にニューフェイスとして入社。同期に若尾文子がいた。同年の『美女と盗賊』で映画デビュー。1953年、若尾と共演した『十代の性典』が大ヒットし、注目される。その後シリーズ化され、「性典スター」として人気を博する。1955年、大映から日活に移籍。若尾の進言により、芥川賞を受賞した話題作『太陽の季節』が映画化され長門裕之とともに主演。この映画は大ヒットし、二人は日活の看板スターとなり、多くの作品に出演する。1961年長門と結婚。1963年、『サムライの子』でブルーリボン助演女優賞を受賞。

1964年、長門とともに「人間プロダクション」を設立。太田博之、島かおりなどを育てると同時に、ドラマ制作にも乗り出す。この時期より、テレビドラマへの出演も多くなり、NHKの『紀ノ川』(1965年)で「日本放送作家協会賞女性演技賞」を受賞。

また、俳優としての活動以外にも、長門と2人で『ミュージックフェア』の司会を1965年から約16年間担当した。また、京都放送の交通遺児募金キャンペーン『かたつむり大作戦』のメインパーソナリティーを、20年以上担当するなど多彩な活動をしている。

さらに、1978年10月から1979年9月までの約1年間、病気で降板したうつみ宮土理の後を継いで『クイズダービー』の4代目2枠レギュラー解答者としても出演する。しかし南田の正答率は2割1分7厘(平均2勝7敗ペース)とあまり高くなく、過去の2枠レギュラーの中ではワースト2位だった(ワースト1位は井森美幸の2割0分8厘)。当時の2枠レギュラーはベテラン女優が入っていたが、彼女のみ1枠の篠沢秀夫より1つ年上と当時のレギュラーメンバーの中では最年長であった(篠沢は同年6月生まれと1学年下。大抵は篠沢が最年長)。南田のレギュラー降板後は、同じくベテラン女優の長山藍子が務める事となる。

建築家の一面も持ち、十数年毎の自宅建て替えの際は南田が自ら図面を引いていた。建て替えの度に、建設費用の高額さと建て替えまでの期間の短さがワイドショーで取り上げられている。長門は「まだ住めるのに」とインタビューで不満を漏らすことがあったが、「洋子の趣味だから仕方ない」と許容する度量を見せている。

1998年には、舅・沢村國太郎の介護の経験を中心に綴った『介護のあのとき』を出版し、評判となる。2004年頃から認知症の症状が出現し始め、2006年に芸能活動を引退し、長門と余生を送っている。専門医を受診し、アルツハイマー病との診断が下された。


『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
優しそうな笑顔が大好きでした。
ご冥福をお祈りいたします。

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2009年11月16日 22:39に投稿されたエントリーのページです。

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